【フランソワ ヴィヨンの詩】
"牛乳の中にいる蠅、その白黒はよくわかる、
どんな人かは、着ているものでわかる、
天気が良いか悪いかもわかる、
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる、
樹脂をみれば木がわかる、
皆がみな同じであれば、よくわかる、
働き者か怠け者かわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。"
園子温監督『ヒミズ』をみてきた。出だしから鳥肌だった。
このヴィヨンの詩を中心に物語ができている。
園子温監督作品と出会ったのは、10代の頃
『桂子ですけど』(1997年)
『うつしみ』(1999年)はパンフレットがかわいくて
ずっとファイルに入っていた。
『Strange Circus 奇妙なサーカス』(2005年)
『紀子の食卓』(2006年)
『愛のむきだし』(2008年)
救いようのない家族というグループを描いた作品多い。
後味は最悪だ。
『絶望』だけ身体に残るような映画。
それは強い個性で、この監督と社会との適切な距離を感じる。
表現には吐き気がするけど、その適量加減が気になる監督だった。
今回
『ヒミズ』(2012年)
震災後、内容をかえたという。
“希望に負けました”とインタビューで言っていた。
圧倒的な絶望に直面して、これ以上の絶望は描けないと思ったのかな。
震災前に作られた作品を、今から出すのは難しい。
あの日から世の中の価値観が、かわってしまったから。
監督は、自分の目を開いている。正直者だと思う。
気付いたら動くし出来た物を壊す破壊力もある。
かっこいー。
それにしても、園子温監督が希望を叫ぶ。
鳥肌だ。
映画を見終わって
頭に浮かんだのは、武者小路実篤の人生論。
武者小路実篤
【人生論】より
“人類は成長することを欲するものだ。
人間はなにかしに生まれたものだ。
何もしないために生まれたのではない。
それなら何をしたらいいのか。
それは自己を完全に生かすように努力すること、隣人のために尽くすことである。
人間はまだ正しく生きることがなかなかできない境遇にいる。
それをだんだんよくして人間全体が人間らしく生きられるように骨折ることを我々は命じられているのだ。
われら個人の力は小さい、しかし小さいなりに何かの形でわれらは人類の成長を助けなければならない。
だから真面目に働くことが必要であり、勉強することが必要であり、昨日の自分より今日の自分、今日の自分より明日の自分と進歩して行くことが必要なのである。
けっして一所に停滞して我々は満足するものではない。
日々精進してゆかなければならない。
進歩が止まった時、その人は次の時代に席を譲らなければならない。
新しきものは必ずしもいいものとはかぎらないが、しかし新しきものを少しも含まないものは、人類から捨てられる。
たえず進歩することが必要なのである。
この世にはいくらでもよくすることができるものがある。
それを小は小なりによくするものは救われる、生き甲斐を感じることができる。
しかしよくすることを知りながら、それをよくするのが面倒でほったらかしておくものは怠け者だ。
そしてそういう人は内に力がだんだんなくなり、元気がなくなり、生き甲斐を感じることができないのだ。
生き甲斐というものも、生理的にくる実感だ。
精神的にそう感じないわけにゆかない自然から与えられた感情だ。
いい音楽を聴けば、理屈は分からないが、嬉しくなり元気になり、生き生きする。
ときにうっとりとし、涙ぐみさえする。
それは人間がそう作られているからだ。
人間がそう作られているから作曲家は感動してその作曲をつくり、演奏家はまた感動してその曲を奏するのだ。
だから聴衆もつい感動するのだ。
いい画を見ても画家の感動がわれらに伝わるのだ。
悪い音楽や、悪い画は見かけだけで、内に深い感動がない。
人間でも内に本当に感動があって生きてゆく人はまた、他の人を動かすのだ。
精神を健全にするには人類全体が正しき姿に戻って成長することが必要だ。
ところが今はそういうときではない。
だから精神の喜びを味わい得るものははなはだ少ない。
多くの人は空虚な心を何か他のものでごまかそうとしている。
しかしそれは自然の意志に反している。
だからそういう人は人生の意味をとりちがえ、人生の喜びを不自然な、病的なものから得ようとして、ますます正しき道から迷い出て、帰るのを忘れるのだ。
本当に自然からくる、生命の喜びを味わいたい人は、健全な精神を生かすよりしかたがない。
しかし、すべての人が健全に生きることは人間にはあり得ないことだから、人間は絶えず自分の無力を感じ、自分の努力の足りなきを思うのだが、自然は人間の力の足りないことは知っているから、すべての生命が健全に生きられないでも、その目的に向かって素直に進歩してゆけば、深い喜びをわれらに送ってくれるのだ。
「われはすべきことをなした」これ等の気持ちをそのとき、人間は味わい得るのだ。
「私の力はこれっきりです。あとはあなたにお任せします。神よ」という気持ちになれるのだ。
安心立命ができるわけだ。
それはけっして人間が勝手にそう感じるのではない。
自分の最上を尽くすことができたとき、また自分の心が素直になりきれて神と内心がつながることができたとき、その喜びは自ずと人の心の内に現すのだ。
これは理屈ではないのである。
しかし、この感じは長続きしないかもしれない。
人々の精神はいろいろのもので動揺しやすいから、しかしこの深い喜び、無心の喜びが人間に与えられていることを知る者は、そこに人生の救いがあることを知る者だ。
いくら雲に覆われても、太陽のあることを知っているように、自分の心がけさえよくし、そしてその心が欲することを行えば、永遠の喜びの泉から無限の喜びの水が流れてくることがわかっているのだ。
人生に悲観するのは、自分の心がいたらないからだということがわかるのだ。
自分の至誠の不足、自分の愛の不足、自分の精進の不足、それが感じられるのだ。
天を恨む気になれないのである。”
生まれたての馬をみて、そのヌルヌルの細い足で立とうとしている。
周りの人はやっぱり『がんばれ』と言ってしまう。
誰も彼の代わりに立つ事はできない。
やっっぱり『がんばれ』と言ってしまう。
“やけくそでもいい”
自分の足で立って生きろ!と言われました。